「シンガポールでの法会における講法」より抜粋
(1998年8月22、23日)
問:出家人として朝晩の勤行などに参加することは修煉に影響を及ぼしますか。
師:私はできるだけあなたに影響を及ぼさないようにします。我々の中では多くの寺院の僧侶や道士或いは他の宗教の人々がこの大法を勉強しています。私は一つの道理を言っておきます、我々はいかなる宗教、いかなる常人社会の形式をも問題にするわけではありません、我々はただそれを常人の仕事としか見ていません。佛も何も面倒を見ず、ましてや済度しないわけですから、それは常人社会の一つの形式に過ぎないのではありませんか。私もそれを一つの仕事と見ています。そういうわけで、われわれはそれを気にしません、我々が必ず寺院へ行って和尚さんの考えを改めさせなければいけないとは言っていません。我々は人心を見るだけです、あなたがどんな境地、どの次元、どの社会階層にいようとも、人心を見るだけです。えらい人が法を学んでから多くの人にこれを学ばせることができると思う人もあるかもしれませんが、私の言いたいのはそういうことではありません。誰かに命令されて来るのは本心で法を得に来るものではありません。私はそういう人はいりません。ですから、あなたがどの階層にいようと、私は人心を見るだけです。あなたが宗教界の人であっても、私は人心そのものを見ます。皆が衆生なので、修することができる人であれば、誰であろうとも、その人に対して責任を持ちます。修煉したくなければ、仕方がありません。
以前は宗教においてもそうでした、佛は宗教を認めません、宗教は常人が作った名前です。釈迦牟尼は早期その僧団の修煉形式を作った時もそれを宗教とは言いませんでした。佛も人心を見るだけで、人が守ろうとするその形式などというものとは無縁でした。守ろうとすること自体も執着で、全て常人が捨てきれないものであり、真に佛を修めるためのものではありません。修佛において、だれだろうと、修さえすれば、私は彼に責任を持ちます。私はそれを衆生の最も純粋な心、真に善に向かう修煉の心として見ます、それが見えて始めて私はその人に対して責任を持つことができるのです。朝の勤行とか、夜の勤行とか、昔の経文を読むとか、経文を朗読するとか、聖書を読むとか、そういうことに関しては、居士或いは一般の人ならそんなことはせずに大法の修煉に専念しなさい、これは厳粛なことです。しかし、出家した人や神職の人は取りあえずやってもいいです。私はあなたの仕事としてしか見ていません、もともと責任を持っている神佛がいないのですから、ある次元に到達すればあなた達は自分がどうすればいいか分かるようになるはずです。私は最も便利な門を開いており、ただ人心を見るだけです。(拍手)