忍耐強い心で怠惰という束縛を打ち破ろう
怠惰というものは、人の悪い状態の一種です。この状態は情から出て来たものです。師父は「人間はどうして人間でありうるのでしょうか?それは人間には情があり、人間は情のために生きているからです。肉親同士の情、男女の情、親の情、感情、友情など、何をするにしても情が重んじられ、情を切り離しては何ごともできません。やる気があるかどうか、気分がよいかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人間社会のすべてのことが情から出ています。」とおっしゃっています。(「転法輪」第4章:心性を向上させる)
怠惰と享受は、双子の兄弟のようなものです。“享受が好きな方”は必ず“苦労が嫌い”です。宇宙には「失わない者は得られず」という理があります。常人社会では、「たくさん働けば得るのもたくさん、少なく働けば得るのも少なく、働かなければ得ることなし」という形で現れます。修練者には「払えば払うほどたくさん得られる」「放棄した分だけ昇華できる」という形で現れます。
常人は、この道理があまり分からないので、少ない労働でたくさん得る方法を常に考えていて、ひどいものになると働かなくても得られるという妄想をして、まったく得と失、善と悪等の間の因果関係がわからず、そのため知らないうちに滅亡の深淵へ滑り落ちていきます。本当にかわいそうです。心の法の規制がないから、常人は怠惰を自覚し抑制することがとても難しく、利益の駆りたてと生存という圧力によって有益なことをせざるを得ないのですが、可能であれば、彼らは絶対自分の怠惰を放任したいと思っています。
大法の学習者は、善悪及び得失の因果関係を分かっていますので、私たちは闘争心、顕示心、嫉妬心等の、主動的かつ激しい形で現れた執着心に対しては勇猛に戦い勝つことができますけれども、受動的で形がなく現れる怠惰心は無視あるいは回避しがちです。怠惰は、“やりたいかやりたくないか”の中の“やりたくない”という面が顕著に現れたものであり、毒のように私たちの意志を腐らせ、荒縄のように私たちの足を束縛し、麻薬のように私たちの神経を麻痺させ、高山のように私たちが返本帰真するのを阻んでいます。
怠惰は常に私たち自身に現れますが、私たちはいつも無視しがちで、ついには怠惰そのものを感じなくなってしまいます。私たちは、いつも自分の不精進と不精進になる直接の原因を認識できるのですが、怠惰という無形の魔の影を無視あるいは意図的に回避してしまいがちです。理と照らし合わせると、認識できることならばその通りにやれるはずですが、実際は、私たちは認識できてもいつもそのようにしていません。私たちが悪いと知りつつわざとするのは、認識と行動の不一致の現れであり、根本的にはやはり怠惰が原因だと思います。
怠惰は、私たちの法の勉強や、練功や、法を広げることや、正念を発すること及び日常生活の各方面に至るまで現れ、無形の網のように私たちの足を踏み出しにくくしています。私たちが法を勉強する時、怠惰は私たちに疲れを感じさせ、さらには眠らせてしまいます。煉功を必要とする時、怠惰は煉功する時間を少なくし、あるいは様々な口実で煉功を避けさせます。私たちが法を広めなければならない時、怠惰は環境が良くない、自分の条件が悪い、あるいは今十分できましたなどの理由で自分で言い逃れをしてしまいます。私たちが正しい意念を発する時、怠惰は私たちに最低限度の5分間だけで満足させ、常に正念を発することを怠けさせます。日常生活の中で、怠惰は私たちにいいかげんにさせたり、その日暮らしをさせたりします。
長い間、私は怠惰に困っていて、修練状態も良かったり悪かったりしています。私は自分が精進していないと感じた時、頭の中にはいつも昔と比べたり他の人と比べたりする考え方が現れています。それは、実は怠惰が私の頭の中に潜り込んでいるのです。私は、ずっと練功を避けていました。他の人から聞かれた時、いつもいろんな言い訳をして言い逃れをしていました。私が文章を書こうとする時、頭の中には書く価値がないとか、認識がもっとできてから書けばいい、などという考え方が現れてきます。それは、怠惰が私の疲れることをいやがる心理を利用して私の邪魔をしています。
私は、自分が法を広めることがよくできていると思っていますが、また心の中でたくさんの資料を作ったとか、たくさんの人に法を広めたとかを計算してしまいます。ある日、小さい弟子に「私は貴方があまり何もしていないと思います。」と言われた時、私の心は深く揺り動かされました。その晩私は、自転車の後ろに座り、他の大法学習者が私を連れて空中を走っている夢を見ました。これは先生が私に「自分で上に向いて進み、他人に頼らないように」と教えて下さったのです。
怠惰は、およそすべての大法学習者が必ず乗り越えなければならないもう一つの難関です。しかし、怠惰の裏には実は邪悪な勢力が幾重にも渡って支えていて、私たちが怠惰を一掃する過程とは、実はその裏の邪悪を一掃する過程でもあり、即ち世の中の人を救うことができる環境を作る過程です。
怠惰によって私たちはたくさんの時間や機会を浪費させられており、まだそれを重く認識しなければ、億万年の期待が一瞬にして崩れてしまいます。私たちは怠惰に左右されてはいけませんし、先生の加持と外部環境の変化を待っていてはいけません。私たちは、大法の中の修練によって出てきた知恵と威徳で自主的に自分の全ての悪い所を取り除かなければなりせん。先生は「あなた方は全てをわたしにまかせて向上することしかできず、自ら行くこともならない、あなた方は法が明確に示されれば、動くのであってはっきり言われなければ動かないか、かえってその反対に動いてしまう、こういった行いをわたしは修煉と認めることはできません。大切なことはわたしがあなた方に対し人と決別しようと言ったときに、あなた方がわたしについて行けず、そういった機会も再び来ないのです。修煉は厳粛なものであり、差はどんどん大きくなり、修煉の中でいかなる人のものであってもそれを加えることは極めて危険です。」(「精進要旨」の「根を掘る」)とおっしゃっています。
怠惰は、真実を説明することや、世の人を済度することが負担であると常に私たちに感じさせ、人為的に私たちの慈悲の本性を抑制しています。私たちは先生の教えを銘記しなければならなりません「真相を伝える時、待たず頼らず、外在の要素の変化に期待を託さないでください。私たち一人一人は皆未来のために歴史を創造しています。ですから皆、集団活動に参加する以外にも、積極的に大法の仕事を見つけて取り組んでいます。大法に有利なことであれば、積極的に行い、行動すべきです。社会で接触する全ての人は皆私たちが真相を伝える対象なのです。真相を伝えることから現れたのは大法弟子の慈悲と世人を救い済度することです。」(先生の新経文「北ヨーロッパ法会の皆さんへ」)
怠惰は、情から派生した強烈で頑固な執着心であり、私たちの体の各層に存在していますので、私たちは忍耐強い心で各層を突き破らなければならず、そうすることによって功成り円満となれます。「この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです。」(「転法輪」第4章:心性を高める)
怠惰の強烈さと頑固さに対して、私は先生の「登泰山」という詩を更に深く理解し、その詩で私たちはお互いに励まし合って怠惰の束縛を突き破り、最後の法を正す修練の道を正しく歩いて行きましょう。「攀じ上る高き階千尺の路、盤回し立ち?(はだか)りて起歩難し。首を回せば正法を修するを看るが如し、天半ばに停まり得度し難し。恒心をもって足を攀げんとするも万斤の腿、苦を忍び精進して執着を去る。大法の弟子千百万、功成って圓満(成就)し高き処に在り。」