現代文明をめぐる考察
古代文明の現代問題
今期の人類文明時期に、人類の文化はほとんどメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明と黄河文明、その四大文明から始まった。それらの以外、異なる時期に幾つもの地域で短期的な文明も存在した。
イギリスの歴史学者トンエンピは歴史研究の中で、キリスト教における見地を判断基準とし、文明間の差異性を解釈した。特に、トンエンピは宗教における衝突が、文明衝突の根源であると主張した。
アメリカのハーバード大学のサミエル ハンチントン氏がトンエンピの研究に沿って、文明間の衝突という角度から、次世紀における人類を予測した:新世紀で、衝突の根源は意識形態により生ずるものではなく、経済から生じるものでもない。人類の分裂及び衝突の根源は、主に文化にある……文化の衝突が未来の世界的政治を主導し、文化境界線は未来における戦場の最前線となるだろう。
ハンチントン氏が文明間の差異性を研究分析の前提とした観点から、ある印象を受けた:世界の約7つ、8つの文明間における相互作用(衝突も含めて)は、まるで世界の縮図である。では、文明間の衝突は、新たな趣意を創出するのか、それとも精神的側面を攪乱させるのか?或いは矛盾の中で活気を減退させ、物質と精神資源を使い果たすのか?
文明間の矛盾
文明間の共通性を熟考してみると、上記と全く異なった縮図が得られる。古代文明は独立した発展状態であるが、文化が交流した後、各文明の本質に変化が生じた。文明間の衝突は、実は各文明が文化の交流によって生じた現象である。
では、文明の共通性はいったいどこにあるのか?文化がこのように交流し続ければ、世界は均質に融合させてしまうのか?それとも異なる文化概念間に衝突が爆発と化してしまうのか?
実は、今の人類は既に文明の根を失った危機に陥っている。金銭と権力は人々が堕落した後、唯一共通な生存法則となっている;科学に対する信仰が宗教への真の信仰にすり替わった。それらの現状は各文明の共通点だといえる。今日、過去の文明は人々が互いに衝突する根源となった。文明間の共通な価値観は金銭と権力を求め、物質主義と実証科学を信仰することである。古代文明の善なる道徳観念を軽視することは、人々が思想の中に文化交流、自由競争を良いこととして認める悪い方の結果である。
中国と西洋文化の交流を例にして見る。今日、中国文化は僅かな表面的現象しか残っていなく、西洋人も自分の文明の根源的な意味が不明瞭である。両文明が共に根を失ったからこそ文明の衝突が生じた。
共通性は天上にある
では、全ての宗教、価値と文明を集めて、その良さを保留しその悪さを捨て、その妥協の結果文明の核心と文明の根源が表れて来るのではないか、人類は完全に衝突と矛盾から解放されるのではないか? 一部の人は人間としての角度から宗教の教義を融合させようとしている。しかし、文明の共通性は単に各文明の集計であるのか?各文明の根源の背後にまだ源流があるのか?もしそれが本当であれば、これは文明を創出した根、文明間の本質的な共通点ではないだろうか? 東洋宗教及び西洋宗教の根は共に天上にある。全ての文明は、神が世紀、天地を創造したという話が初期に記録されている。これらの記録は人々が断固として否定することにより消すことができるだろうか?それらの伝説は全て作り事だと簡単に断言できるだろうか?
哲学者、思想者及び科学者は皆真理を求めて探求している。この真理は決して人類の差異性、究極の哲学思想、理論概念、或いは異なる宗教信仰に等しいものではない。真理は想像、思考,或いは研究によって得られるものではなく、自己を真に修し、宇宙の特性に同化し、自分のいる境地で悟った理である。どのようなことでも人間の階層で表れた衝突であれば、実は真理から離れた故に生じた問題だ。宇宙の真理は円融である。しかし、人間は限界のある物事に執着したため、宇宙の真理と円融することができなかった。
時代の幕開けは、宇宙の最も根本的な特性『真・善・忍』によってもたらされるであろう。人類の文明だけではなく、現有の人類文明を創造した天上世界も、更にもっと多くの階層が正されるはずである。人類文明の衝突がなくなる際、全ての存在が最も本源的、最も美しい状態に戻るはずである。
現代的宗教の様相
人類文明の起源について、神が人類と文明を創造したとよく言われている。しかし、組織化されるにつれ、一種の宗教に変質してしまった。その中で階層や官僚のような形式までも形成された。今日の宗教は完全な組織経営となっている。
例えば、善行〔善的な行為を行う〕は組織化され運営されている。寄付は善を行う行為と見なされている。変異した宗教団体が守ろうとしているのは、真に宇宙の真理を認識し、神の道にそって心を修めることではなく、自己の利益及び宗教に対する理解である。
故に、ハンチントン氏の唱えた文化間の衝突、更に宗教間の衝突は、実は宗教が破壊された後表れた必然的結果である。人類発展の過程において、宗教は神の教えから逸れてしまった。その結果、人間は真理に対する信念を失い、堕落し、社会秩序の乱れを生じさせた。
現代人の思考において、宗教は善的行為を行うとする教えであり、或いは、人の心を慰め、安らぎを与えるための存在となっている。実は、宗教は世俗の欲求に奉仕するための存在ではなく,逃避の場を提供するための存在でもなく、また職業でもない。宗教と人間の関係は、ギブ&テイクのような相互関係ではなく、宗教は神の法理を守り、人間を天国に戻らせるための存在である。
人間は自分の認識を制限している
人類は思想を一切の認識に至る方法として見なし、思想を偉大な存在だと認識している。しかし、異なる人が異なる思想を持ち,思想はある角度に限定されている認識方法に過ぎない。
例えば、自由主義者は宗教が人々に制限を加えていると認識している。それは心の中に自由という枠が存在しているからだ。フェミニストらは宗教が女性を差別すると認識している。それは女性解放論の考えを持つためである。実証主義者が宗教の表現は不明瞭で、現有の科学理論に適さないと認識している。それは実証科学方法以外の認識方法を認めていないからだ。まるで、啓示的、直感的、悟性的、啓蒙的、暗示的な方法を全く知らないようだ。人間の頭脳に形成された枠は一種の道具に過ぎない。そのため、見えたものは道具の力が働いている範囲に限定されている。多くの人の思想は限定され、その一部から宗教を認識している。真に信じるのではなく、疑いの心が信じる面を妨げ、その意見が他人を妨害する。
このように、長期に渡る過程で宗教の真意は我々が自覚できないほど変質してしまった。現代人の角度から見ると,古代人の有神論は一種の迷信的無知に過ぎない。しかし、逆に古代人の神に対する信仰を熟考してみれば、古代人は神国世界の真実な存在を我々に知らせているのではないか?古代神話は単なる夢物語だと早急な結論を出すのは、真に真理を求める姿ではない。それらの思想観念の枠は、我々の頭の中に侵入し理性的思考を妨害している。見ることは信じることというような実証的考え、人間は猿から進化したものだ、神話は未開の古代人の想像だ、科学は人類一切の問題を解決できるのだ、物事に対してまず疑うべきだ、目新しいことに好奇心をもって、探求すべきだなど、すべてはそのような先入観だ。一つ思想があれば、一つ枠もある。自分が信じたことのみ信じるならば、我々の心霊世界はますます狭くなるのではないか?人間の智慧の欠乏は、知識不足のためではなく、認識方法が制限されているからだ。人間は万里の路を歩み、万巻の書を読み、広大な精神世界があり、深淵な智慧に富んだとしても、高層の天体からみれば、極めて微小で取るに足りない存在である。
文明衝突の危機を回避する
文明衝突の裏に無数の危険が隠れている。近代ハイテク兵器の衝突下において、人類は一瞬で壊滅してしまう。利害関係が協議をもたらすが、観念や信仰の対立は、感情の働きにより理性を失わせ、勝手気ままなことをさせる。
世界経済の発展は、人類を利益という名目で集結させた。しかし、地域制限のない自由経済は、深刻な利害の衝突をはらんでいる。科学技術の発展は、人を狭義の物質運動の中に陥らせた。各分野の社会科学が思想を占拠し、人類の精神文化に片面的理解をインプットさせる。これらの社会科学は、今日の政治、教育、文化、法律、経済などのあらゆる領域を支配している。実証科学の人文領域への支配は、まさに人類の大悲劇である。知識人の考えは、自分自身の内に限定されてしまう。
真の人生の意義とは、人間が探し当て、着想したことではなく、神によって与えられ、創り出された存在である。ある次元の見地において、はじめて人類文明というものを理解でき、為すべきことを明白にできる。人間は宇宙の最下層に位置する存在である。衝突変異の思想は、新たな世界において立脚の余地はないであろう。