馬三家刑務所は自分が法を犯したことを告白

2001年6月6日 文/雪松

 [明慧ネット]馬三家刑務所は外国マスコミの現地見学と取材を招待したが、馬三家刑務所がいくら苦心してつくろっても、あるいは“親戚より親しい”など歯の浮くような話を囚人に言わせても、法輪功学習者を残酷に迫害していることを覆い隠せない。芝居はいつまでも芝居であり、偽物はいつまでも偽物である。とてもにぎやかに演出されたが、馬三家刑務所は、憲法を犯し,法律の執行者でありながら法律を犯していることを自ら暴露した。

 刑務所は法律を犯す人を拘禁するところだが、なぜ数千人の法輪功学習者を拘禁しているのか。彼らは何の法律を犯したか。法律を犯したかどうかを判断する標準は何だろうか。彼らは緩やかな煉功動作をし、病気治療と健康保持の養生の道を学び、国の医療費を節約しているだけで、何の罪があるのだろうか。“真、善、忍”の美徳を尊び、心を修めて生まれつきの性質を養い育てることによって、誰を妨害したのだろうか。何時から中華人民共和国の憲法から、言論自由と信仰自由の人権が消さられたのか。法輪功の学習者達が法律によって与えられた公民権に従って、政府部門に上申し、国と政府にたいし欠点と誤りを正すことを手伝ったが、捕えられ、殴られ、拘留されることになった。記者が来た時には手錠を使っていない、電撃棒を使っていない、学習者達を殴っていないと言った人もいるが、千人余りの法律を犯していない良民を監禁することだけで十分法律に違反することになった。執行機関は悪い人を制裁する行政道具であり、良い人をやっつけるなら、法律の執行者でありながら法律を犯しているのではないだろうか。

 “教育で法輪功と決別させる”というのは、思想の教育と導きによって、他人の考えあるいは信仰を変えることである。千以上の人を監禁し、強制的に学習者に自分の信仰を放棄させ、自分の思想を受け入れさせ、これは憲法の信仰自由の趣旨に違反したのではないだろうか。“教育で法輪功と決別させる”ことの本質というのは、つまり法輪功学習者達の“真、善、忍”理念が江沢民の好みに合わないことである。勿論、“真,善、忍”はまるで高く掛けられている明鏡のように、本当の善悪、正邪を判別している。ところが、江沢民政府は「邪悪はなんといっても悪であり、悪辣であり、邪なのです。まさに毒薬のように、人を害さずにはいられない存在です。」(2001年カナダ法輪大法修煉体験交流会での講演)。全中国の人が法輪功を勉強したら、江沢民は民衆の思想を統一することができなくなる。人々が“真、善,忍”の標準で理非曲直を判別し、皆が頭脳明晰であると、彼は飯の食い上げになる。

 馬三家刑務所は拘留されている或いは拘留された法輪功学習者は違法行為をしたと言い切っている。そうだったら、証拠を見せるべきだ。法律は芝居ではない。法律違反の人に罪を決定するなら、憲法に従う判別の標準が必要であり、又犯人を監禁する前に一連の法律手続きが必要である。馬三家刑務所はこれらの手続きを通したと正々堂々と言えるのだろうか。