執着を放棄して、私を待つのは無限なすばらしいことだ
皆さん、こんにちは。私はMicheleGoncalvesです。29歳、ニュージャージーからやって来ました。法輪大法を修煉してから一年が過ぎました。今日私は皆さんと修煉体験を話し合いたいのです。
私はニュージャージー北部のある治安がとても良くない都市の中で育てられました。そこには至る所に犯罪と麻薬吸引がありました。最初家が引越して来た頃は、まだよい地区でしたが、私が生まれた年から、何もかも悪くなっていったそうです。そのために私は大変な少年時代を過しました。
私は学校の中では珍しい白人学生の中のひとりだった。そこで、私はみんなによく注目され、いつも他の学生から脅かされました。彼らは私に種々のあだ名をつけたり、授業時に私の体にものを投げたりしました。皆さんにあのような情景を想像することができるでしょうか。ひどいときにはホームレスの人が毎日私を尾行して学校に着いて来て、私を悩ませていた。私はそれまで反撃したことがなかった。一方では少ない人数で大勢の人に対抗できないから、私が恐れていたのです;一方では私が彼らと一緒になりたくなかったからでもあります。
私は七歳と十二歳のとき、隣近所の二人に「親友」という口実で虐められた。私が号泣のあまり声が出なくなった。どうして私がこんなに不幸なのか。私が神様に祈って聞いた。どうしてこのような恐怖で不幸な境遇を私に辛抱させるのか?唯一解釈できるのは運が悪いということであった。私に起こったすべてはきっとその原因があると心の中に思った。ただその原因について私がとしても解釈できず、理解できなかった。
これらを経験した後に、私は母と一緒に教会堂に行って、神様が確かに私の生命の中にあることを感じて、しかも私のいくつかの問題を解決してくれた。しかし神様はこれまで私が探していた解答を与えてくれたことはなかった。教会の理屈がない規律を守るのは私にとって、とても無理だと思えた。例えば:私達は教会に自らの収入の10パーセントを最低標準として寄付しなければならなくて、女性は化粧を許されず、その上私達が教会以外の人と付き合うのを好ましくなかったなどなどである。二十歳を超えたとき、極めて大きい圧力の下で私は洗礼を受けて、私達の寄付によって建てられた大学に行かなければならなかった。実は、心の底で私はこの二つのことに反対していたので、私は楽しくなかった。最後に、一名の新人が教会堂を接収管理した時に、15年来私が必ず従わなければならない杓子定規なきまりを廃止した後、私はそこを離れた。それから、私は宗教の信仰をやめた。私は誓いを立てた、力を尽くして自ら1人のよい人間になれば、それで十分だ。
約6年後で、1999年12月に、私は中国上海に出張しまし。同僚が私に法輪大法を紹介してくれた。彼女は静功を練習すると、気分がよいし、しかも活力に満ちてくることを私に教えてくれた。これで十分私の興味と注意を引き起こした。私は恐喝症に罹った後、ずっとカフェインを頼って日々を送っていた。私たち仕事の会議室の中で、彼女が私に「転法輪」の中の内容をいくつか伝えてくれた。例えば、植物にどのような感情があるとか、木、石はどのように歌を歌って、何かを伝えるとかを解釈した。彼女の言ったことはすべて私を驚かせ、聞いたらこれらすべては非常に不思議で、人を夢中にさせた。その時私は奥深いものだと思ったけれども、しかし彼女の言ったことをすべて信じて、もっと多いことを知りたくてならなかった。出張から帰ってから、彼女が私に「転法輪」と功法を教えるビデオをくれた。一日以内でそれを読み終わった。私は李先生が言った一言一言に驚いた。私は自ら1冊の天機が満ちた本を開けることを許されるような感じを覚え、その中に宇宙と人生のすべての秘密を解答した。「転法輪」の中に特別とても際立っている一段があって、再び読むときに見つかりやすくために、私は印を作った。本当にあまりに奥深いものだ。それは第四章の中の「心性を向上させる」一節で、本の中にこう書いている:
「大覚者から見れば、人間になることは目的ではありません。人間の生命は人間になるためのものではなく、元に返るためのものです。人間はさまざまな苦しみに耐えていますが、大覚者はその苦しみが多ければ多いほど良く、債務が早く返済できるものと考えています。」
私はこの話まで読んだとき、内心からの解脱感を言葉で表現できない。私の肩の上から全体の世界の重量を下ろしたような感じだった。私はやっと子供のときに私の身に現れたことについて分かってきた。現在すべて解答できた。これらの事が私の身に現れたのは、原因がないわけではなく、私に業力を滅させ、それらは私が生々世々他人を傷つけたため、積み重なった業力だった。それで、私はあれら私を傷つけた人々を許すことができるようになって、私に苦痛や堪えがたいこともなくなった。私はやっと平常心でこれらのことを対処できて、もっと大きい、もっと良いこと――私の修煉をやっていけるようになった。
修煉してから最初の何週間にはじめて「転法輪」を読むときに、面白いことはいくつもあった。第二講「天目」を読んだとき、私はすぐ前額が開いたように感じて、圧力は非常に大きくて、怖かった。私は今読んでいる本は普通の本ではないと信じていた。本を読むとき、私は細かくて、早い、明るい光を見出した。エネルギーによって私のてっぺんから灌頂されたことも感じ、煉功するときに私を囲んでいた。私の同僚が「どうですか?お元気ですか?」
と私に聞いたとき、私が答えられたのはただ「これはあまりに不思議だった」。
それからしばらくたって、私が晩に半分夢半分目が覚めた状態でいくつかのものを見た。これでいっそう「転法輪」の中で言ったのは童話の物語ではない、真実だと、私に信じさせた。たとえば、私は私の真眼が私に向かってまばたきしたのを見て、少し怖かった;私はまた1つ黒白色の非常に生き生きとしている法輪が回転しているのを見た。ときには私はまた多くの夢の中で、人類の空間で超能力と称される多くの人間の本能が現れた。いつも頭で考えると、空中にいってものを移動するとか、ドアを開けて閉めるとか、などなど。多くのこのような事は最初のいくつかの週に発生して、更に私に師父と大法を信じさせるようになった。
これらの見事な事は発生した後間もなく、苦しみもぞくぞくやって来た。たくさんあったが、ここで皆さんに中の主ないくつかを話しましょう:
1人の仲がよい友達は私に1つの家庭の虐待事件の中で法廷で証言させた。被告は私の長年間知っていた人だった;
私は我が社の一名の管理人員のセクハラを訴える文書を1部用意することを求められた;
私の財布は盗まれて、多くの現金をなくした;
会社の駐車場に止めた車はぶつけられた。
これらの事を経験して、私は絶えず自分に警告する:ミッシェル、これはよい事だ。私の心性は高めなければならない、怒ってはいけない。私達は迷宮の中で、この肉眼は真相が見えないで、これは業を消す機会だ。
李先生は「転法輪」の第四講「業力の転化」の中に「したがって、今後煉功する際、さまざまな苦難に遭うでしょう。それらの苦難がなければ、修煉がどうやってできるというのでしょうか?誰もが和気藹々としており、利益についての衝突や心の乱れることもなく、ただそこに座っているだけで、心性が高まることになるでしょうか?そんなことはまずありえません。……したがって、今後トラブルに遭遇した時は、それを偶然なことだと考えてはなりません……あなたが煉功者として自覚してさえいれば、それを正しく対処することができるでしょう。」
これらを基礎として、私は最近の何ヶ月かの中で、自分の修煉はスムーズに進んだことに気づいた。時には私の進歩は大きくて、目の前の関門をすべて乗り越えた。しかし、突然すべて乗り越えられなくなった。自分が下へ滑り降りっていくように感じた。私は確かに人の世の執着を放棄するために苦しんでいた。たとえば:
友達あるいは同僚と他人に対してとやかく言うこと;仕事がひけた後の“楽しい時間”は酒を飲みにいくこと;私が長年間ほしかった毛皮のオーバー、ダイヤのイヤリングと銀色BMW(高級車)、これら私が家族と友達に向って誇示することのできるものを放棄すること。
私がこれら人の世の楽しみを逃したと感じた時に、苦悩、いらだたしくなった。私が続けて法輪大法を修煉するかどうかを自分に聞いた。これはこの世の中の私の好きな事がすべて否定されることを意味するかどうか。私は本当に修煉の道で分岐点にぶつかった。私は常人の思想状態を引き続き維持するか、それとも私がこれらの考えと願望を放棄することによって、円満を達成できて、真なめでたいことを見つける?
当然、最初私はやはり続けて「転法輪」を読んで、しかも一心不乱に、私達がどうして迷宮の中で生活しているかを釈明した部分と、われわれこの肉眼で見たすべてのものは虚像だと、再び読んだ。私は努力して自分を奮い立たせて、同時に、私は中国大陸同修が被った苦難と虐待に関したものをいくつか読んだ。私は彼らのために悔やんでいた。中国政府がやったことはとても恐怖だと思った。しかし私と一切関係がなくて、数年前、私が法を得る前に、発生したその他の恐怖事件のようで、例えば、ボスニアとクソオの大きな災難。この時、私はほとんど読書と煉功を停止した、つまりもとの日常健康鍛錬に戻った。自分のために新しい目標を立てた。それはつまりあくる夏の水着の季節に適応するために、体重10ポンドを減らすことだ。しかし、これはただ三日間しか続かなかった。その時、私はすでに底まで落ち込んでいって、大法を遠く離れて、数週前まで私がまだかたく信じた宇宙の特性「真、善、忍」を遠く離れた。しかし、私達の偉大で慈悲の先生はずっと私を世話していて、直ちに私を助けてくれた。
私が常人状態に戻ってきた三日目の晩、私は夢を見た。夢の中で、私は高い壁の上で、努力して下っていくことを試みて、最後に床板の上に落ちた。その後、自分は部屋の中で鍵をかけられたことに気づいた。この時、李先生が現れて、紙を一枚私に渡した。私がそれを開けて見ると、上は「4」(Four)を書いていた。私はこの夢に対して不思議に思った。翌日(2日目)、私は同僚に話した。彼女は「4」(Four)は 「フロリダ」(Florida)のことを代表すると思った。その時フロリダの交流会は次の週の週末に行うことになった。もっと良い説明がないために、私はこれを私のフロリダに行くべき教化と見なした。そこで、私はすぐにインターネットに入ってホテルの部屋を予約し、それから航空券の予約を始めた。そのとき「スーパーカップ」試合の週末で、アメリカのスポーツ界で一番大きな試合時期であった。「幸運」なのは、決勝戦はフロリダで行って、その上ニューヨークジャイアンツは優勝を奪い合うチームの1つになった。これでニューヨークからフロリダまでの航空券はほとんど1000ドルまで値上げした。私はかつて自分に対して言った:神様、本当にたかい!私はフロリダで一日半しか泊まらないのに。私は決心がつかないで、半日の時間をかけて考慮した。あとで私は決心した:いくら高くても私は行く。そこで私は個人の情報をコンピューターに入力して、私がコマンドキーを押さえつけた時、知らせはスクリーンの上で現れた:「航空券はちょうど500ドルまで値下げした、あなたはこの最新の価格を受け入れられるのか?」私は抑えられなくて、大いに笑い始めた。李先生は私がお金に対しての計算という心を放下することができるかどうかを試練してくれたことが分かってきたからだ。最後に私は航空券を予約して、ついにフロリダに飛んでいった。
経験談の交流会に参加したことが私を変えた。それは私が再び奮い起こすように助けてくれて、法輪大法を守り、弘法および修煉をするようになった。週末全体およびあとの何日か、私はとても楽で穏やかであることと感じた。私はただ何時間だけしか寝ないけれども、かつてなく元気で、とても清新で楽しく感銘した。たくさんの同修が身の周りにいて、これは1種のきわめてすばらしい安らかな感じだった。同修たちの話を聞いた後に、いかなる私と接触する人とも法輪大法を分かち合う気持ちがずっと胸のうちに湧いてきた。私がいくつか今までしたことがなかった事をやった:私がチップを枕の下に残して従業員にあげたとき、同時に、法会でもらった簡単な法輪大法の紹介をチップの下に置いた;さらに私は空港に行く途中、チャンスを見つけて運転手さんに法を伝えた。彼はたいへん興味を持って、それから彼は私に評論した:「お姉さん、私があなたを迎えて、あなたの魅力のせいではなく、あなたが確かにすばらしいだと感じたから。私は本当にあなたの身のエネルギーを感じることができる。」彼と法輪大法を交流する感じがとてもよかった。
今度のフロリダの経験は法輪大法がいかに不思議であるかを私に感じさせた。李先生は私達に対してなんと慈悲で、熱心であろう。今、私は以前よりもっと李先生が私達を世話して、指導して、私達をあまりに遠く落後させないようにしていることをかたく信じている。私は行為と思想が再度とても利己的、現実的、平凡になったとしても、先生がいつもそこにいて、私達を連れて帰る。
今、私は前よりもっとしっかり修煉していることを感じている。私が週末の時間はすべて法輪大法に占められたことについて不平をこぼさなくなった。実際にはちょうど反対で、私は次回の経験交流会或いは次回の地区活動で法を広げていくことに参加するのを待ちきれない。私が始めて自分は大法の1粒子だと感じるようになった。当然、私はやはり自ら多くの執着心を放棄しなければならないことを感じるが、私が修煉者の立場に立って自分を見た時に、これらの執着心はこんなにでたらめだと感じ取った。私は自らこのような執着があるために恥じ入ることを感じた。執着心を取り除くのは修煉の中で最も苦難に満ちている部分だが、しかし執着を放棄しなければ、やってくる結果は更に恐ろしくなる。私にはわかっている、もし私は本当に全ての執着を放棄したのならば、私をまっているものはは無限なすばらしいことだ。私は自分のすべてを尽くして、円満成就を達成して、自分の家へ帰るように決心した。
私は李先生の「円満成就に向かって」一文の中に多くの話は、肝心な時に私を大きく助けてくれた。ここで、私はみんなと一緒にこの話を復習して、今日の発言の総括とする:
「執着心を持ちながら法を勉強することは真の修煉とは言えません。しかし、修煉を通じて自分の根本的な執着に次第に気づけば、それを取り除くことによって、修煉者としての基準に達することができます。それでは根本的な執着とはなんでしょうか。人間はこの世に多くの観念を形成し、それに振り回され、憧れのものを追求しています。しかし、人間はこの世に着て、その人の人生のあり方および得失が因縁関係によって定められていますので、人の観念で人生の一歩一歩を決めるわけではありません。従って、所謂憧れと願望も永遠にかなえられない追求、苦痛で執着の追求となっています。
……それにしても、多くの真に修煉する弟子が厳重な困難を蒙っている状況下でも、幾度となく終了の時間を延ばし、彼らが自分の根本的な執着を認識できるよう期待しています。このような人の多くは縁のある人であり、円満成就を達成できる見込みのある人です。
……善と悪の現れの中に各自が得るべき結果が体現されています。衆生よ、将来置かれる位置は自らが選ぶものなのです。」
ありがとうございます。