あなた生命の永遠のために

 人は泣きながら生まれてきて,あの世に去るときも家族の涙で送って行かれるのです。その中には叶えられなかった願いや命に対するどうしょうもないという悔しさがあります。人は何もないままで生まれてきて,そして何もないままで去っていくのです。何のために,人はこの世に生まれてくるのだろう?私はどこから来て,そして,どこに行くだろう?人間の本性とは何なのだろうか?善か,それども悪か?などなど……このような疑問を,私はすでに学生時代から考え始めました。きっと皆も多少考えたことがあると思いますが,ただ,時の流れにつれて,あるいは目先の利益だけに執着してそれらの疑問を考える余裕がなかったでしょう。しかし,それらの問題は私たちがいつか直面せざるを得ないことです。

 私は基本的に,伝統的な価値観を大切にする人で,中華民族の古い文化や伝統的な道徳思想,たとえば,仁・義・礼・智・信や誠実,善良、譲り合いなどを,大変尊敬し推賞しています。これらの世の人々に広く推称されている道徳規範は,実に私たちが守るべきもので,人間としての根本だと思います。しかしながら,私は自分がもう完璧に従っているとは言えません。本当はまだまだです。現実生活において,世の人は自己中心的な心理に駆られて,あるいは私欲の膨張によって,さらにほかの圧力の下で,だんだん人間としての基本原則から離れてしまい,他人がそうやるから自分もそうやると,道徳や良心に反する過ちを犯してしまいます。

 この複雑な社会生活において,人と人の間で影響し合うにつれて,道徳標準や道徳観が変わって偏ってきているようです。また同時に,その変わった道徳標準や道徳観が知らず知らずに私たちを変化させているのです。というのは,変わった道徳標準や道徳観が人にいろいろな正しくない観念を形成させるからです。この後天的に形成された観念が逆に人の言行を支配するようになります。以下の例を見れば,人の道徳観がいかに変化したのがわかります。

 中国において、五、六十年代,もし財布を盗まれたら,人々はたいていその悪いことをした泥棒がどんなに徳を損なって罪を犯しているかととがめました。しかし,いま同じく財布を取られたら,人々はその泥棒を責めず,逆に自分が不注意だから,こんな目に会うのが当然だと被害者を責めます。まるでこの様なことが多すぎるから,社会はもはやこのようになったから,自分の不注意のせいだというのです。そう言われて,あなたも自分が結構気をつけているのに悪いのはその泥棒だ,何で皆が自分を責めるのと不思議に思うかもしれません。また、私達は新聞やテレビの報道で,ある汚職賄賂で罪を裁かれた官僚が自分の陳述の中で,以前自分がただ極少しのお金を私腹に入れたに過ぎず,莫大なお金を貪った上司とまったく比べられないと話の筋道が通っているように言う場面をきっと見たことがあります。彼の道徳標準や道徳観はもうすでに偏って曲げられました。私欲の膨張につれて、最初は貪ったお金が少なかったが,最後には莫大に貪るようになりました。果たして,道徳標準は社会の風気や人の観念によって,変わるものでしょうか?いや,本当は変わらないもので,ただ人間の考え方は変わって,道徳標準から偏移してしまったのです。ある人たちは,今日の市場経済において,私利のためにお金ばかりを考えて,お金から目を離せなくなったのです。「人は財のために死に,鳥は食のために亡くなる」とか,「自分のために計らぬものは天地の罰を受ける」とかという言葉がすでに座右の命となってしまいました。

 私はこう言う話を聞いたことがあります。ある中国で生まれた人が,中国というその環境で育てられて,彼の後天観念の中に中国という環境の烙印が残っているから,成人になった彼は絶対に中国人の考え方でこの世界を理解します。可能なら,このような実験をします。中国で生まれた彼をすぐアメリカに送って,アメリカの社会で彼を生活し成長させて見ましょう。したがって,彼は成人なったら,アメリカ人の考え方でこの世界を眺めるのです。彼の後天観念にアメリカの特有なものを持っているのと違いはないでしょう。さらに,この二種類の考え方の差が極めて大きいのです。これはただの例えだし,実際にこのような実験をすることは不可能ですが,しかし生活の中で,このようなことを私たちはきっと逢ったことがあります。たとえば,離れ離れになった兄弟がいるとして,一人は国内で生活をしていて,もう一人は海外で暮らしていて,大きくなった彼らは対面するとき,それぞれの世界観や人生観の間に大きなギャップが存在していると気が付くのに違いないのです。海外で全然普通なことは中国国内でまったく不可能かつ起こるべきではないことです。と言うようにそれは,文化背景や道徳観念が違うという理由があるし,また社会制度と国家制度が相違しているというわけもあります。

 さて,もしも多くの人の観念は後天的に形成されたものだとしたら,先天的な本性とは何であろうか。仏教の中に,一枚の鏡をたとえにして言えば,鏡の上にたまったほこりをきれいにふき取れば,明鏡の本来の姿が見えると言います。したがって,人の心にある塵埃を取り去ることによって,人の善良純真な本性がはじめて現れるのです。聖賢の人は人々に,人間は万物の霊長であり,生命は貴重で不滅であり,だから人は善良に生きていかなければならないと告げます。人は徳を積み善い行いをしなければならない,というのは,善悪には報いがあり,すべて因果報応から逃げられないからです。ただ人は迷いの中で悟らず、本当に報いを受けたとき,自分の運が悪いとか他人のせいにして,また、一方それが偶然に起きたことだと思いがちです。実は人は悪いことをするとき,他人に害を与えるだけではなく,さらに自分自身を害しているのです。彼らは自分の徳を損なって業力を作っているのです。しかし,報いは遅かれ早かれ来ますから,これはただの時間の問題です。数多くの人は古文の中の有名な一節「勧学」を暗唱できると思います。この中に,「積善徳を成し,神明自得し,聖心備はる」という一句があります。しかし,本当に聖人になれた人は古くからの歴史上で何人くらいいたでしょう。善を積むことによって,人は凡俗を超えて聖になれるというのですが,善を積むことは本当にこのように大きな役割があるでしょうか。もしかすると,それは古代の人々のレトリック上の誇張ではないでしょうか。

 善は人間の天性です。この天性は本能や考え方とまったく違うものです。無邪気な子とも,あるいは善良な人は一面識もない他人や動物が苦しんでいるのを見て,かわいそうと感じて思わず涙を流してしまいます。これは全然考えて判断をする必要がありません。善良は人性の標識であって,人間は善の念がなくてはいけません。しかし,善良の天性は弱いのです。人は,もし,自分の宿敵が苦難に遭っているのを見て,相手のことをかわいそうとも思わず,逆に喜んでそんなことに遭うのが当然だと言うかもしれません。どうして善が,知らずのうちに悪になったのだろうと彼自身も不思議に思います。原因はほかになく人の私欲にあるからです。自分の利益に触れると,人の心のバランスが自然に自分の有利な一面に傾いてしまって,そのとき,善なんかどうでもいいと考えるのです。人間の私欲がもし極端に膨張すると,善良な天性を全部失うことになります。いわゆる,喪尽天良つまり良心を失い尽くすということです。こんな人たちは,もし自分の利益が誰かに侵害されたら,すぐ怒りや恨みに駆られて,肉親も認めないほど悪いことをする念を生じます。

 人々は良心を失い尽くした人を「獣」と呼び,普通な人を常人、聖賢の書物ばかりを読む人を君子と称し,善を積み徳をして身と成す人を聖人と,さらに返本帰眞し、執着をすべて無くした人を「佛、道、神」と言います。レベルの差は根本的に人の心にあり,人は徳を重んじて心を修めることがいかに肝要かということです。

 科学技術が著しく発展している今日,人々の道徳に対する重視は古代の人々に及びません。私たち人類文明の初期に,お釈迦様、老子、イエスは覺者としての智慧と慈悲で徳を修める真機を人々に伝えました。人類の自我を制約できる能力が低下している今日,もしも,誰かが人々の道徳レベルを高められるなら,彼は人々を苦痛から救って人々を済度していることになります。

 歴史はいつも驚くほど似ています。イエスが法を伝えるとき,当時,ユダヤ教はキリスト教を邪教だと定めて,イエスすら自分の弟子に裏切られて,迫害を受けました。というわけで,当時の状況が非常に厳しかったことがわかります。その何千年の間,ユダヤ民族があらゆる所で,殺されるほど境地に迫られて,結局,家を失って肉親をなくし流浪しつつで,今でも,少しの安定も得られないのです。これは偶然だと思いますか。今,法輪大法が世の中に広く伝えられていて,それはそもそもわれわれ中華民族にとって大変いいことです。しかも,全人類にとってのいいことです。法輪大法は実に社会やひとびとに幸せをもたらして,全世界で称えられて広く伝えられています。が,この発源地で法輪大法は史上前例なしの最も悪質なデマ、誹謗、根も葉もない言い掛かりと迫害に遭いました。それなのに,多くの法輪大法の修練者たちはこのような巨大な苦痛に耐えながら,大善大忍という念で法輪大法のすばらしさを世の人々に話し,人々を済度し,人々の心にある正義と良知を呼びかけています。今全世界に一億にも上る法輪大法の学習者がいます。さらに,彼らの中に数多くの人は,過去一年,こういう厳しい状況の下で,修練をあきらめず,ずっと続けました。精神が空しいというわけでもなく,政治的なたくらみもありません。ただ,法輪大法は彼らの体や心を本当に変えていて,彼らをずっと悩ませた頑病を消し,彼らの心をより善良により純真に変化させています。

 中華民族の歴史は古くて長いものです。中国の多くの国粋,たとえば,佛教と道教の精深な修練方法が,古くかつ神秘的な東洋文化として,西洋の人々の目を奪いました。しかも,修練界のいろいろな不思議な現象がだんだん人人に受け入れられて,認識されました。修練者の中に若者が結構多くいます。健康で,さらに勉強や仕事で大変忙しい彼らはどうして修練という道を歩んだのでしょう。あなたの後天的な観念をとりあえずおいて,あなたの純真かつ善良な本性で客観的に穏やかな気持ちで「転法輪」を読んで下さい。善と悪という一念は永遠に関わっていて,歴史はすべてを証明してくれるのです。