法を正すことに対する私の理解

 私はニコラス ショルス(Nicolas Schols)と言います。1999年6月に法を得たのです。九日間の先生の説法ビデオ講習班に参加して二週間後、BBCニュースから先生と大法を中傷した報道を聞きました。その時何をすればいいかよく分からなかったのですが、常人と大法修煉者の法に対する認識に違いがあると分かっていました。マスコミは邪悪に操られ間違った報道をしています。非常に邪悪ですが、全ての人が私の心を見つめているように、今回は私にとって根本的な試練だと感じました。

 数ヶ月はすぐ去っていきました。私は弘法に参加し始めました。1999年10月に私は始めて先生の「時間との会話」という経文を読みました。最初、それは私にとって厳しすぎると感じました。それは私の心性に対する試練だと思っていました。法を深く勉強していくにつれて、私の理解はだんだん変わりました。私は先生のとてつもなく深い慈悲に圧倒されました。私の経文に対する理解の浅はかさを恥ずかしく思います。今この経文を読み直すと、先生及び全て既に基準に達した大法修煉者はまだ私を待っており、私のために苦難に耐え、慈悲深く私の正しい悟りを待っているのだと悟ったのです。二年は既に過ぎましたが、私にはまだ多くの取り除かなければならない執着があります。中国国内の修煉者は彼らの慈悲で常人には耐えられない苦難に耐えています。彼らは既に人類の歴史にかつてない偉大で殊勝な威徳を樹立したのです。しかし、彼らはまだ私が内心から目覚めて全てを放棄するのを待っています。

 2000年5月10日の夕方、私は自転車で法の勉強会に参加しに行く途中に、住まいの近くの曲がり角で車とぶつかりました。車に空中に飛ばされた時非常に気持ちよく感じました。輝かしい光が目の前をかすめてから、周りが真っ暗になりました。意識が戻ってきたら、私は車のバンパーから3メートル離れたところにいました。自転車は更に遠いところに飛ばされたのです。私は立ち上がって非常に落ち着いており、車の運転手のことまで心配しました。彼は車から降りてあまりにものショックで立ち竦みました。何とかして彼を慰めなければいけませんでした。自転車は既に完全に壊れました。私の頭も車の前のガラスとぶつかり、ガラスが壊れましたが、私にただいくつかの擦り傷と大したこともないうっ血だけがあり、何の怪我もありませんでした。まさに先生が≪転法輪≫で書かれたように、"借りは返さなければなりませんので、修煉の過程に危ない出来事に遭うかもしれません。しかしこのようなことに遭う時、怖く感じないのです。本当の身の危険もありません"。通りかかった三人の女性は駆けつけて"とても、不思議だ、でも怪我をしているから早く病院に行きなさい"と言いました。大丈夫だと言っても、彼女は私がショックで頭がおかしくなったから、明日になると怪我したと気付くだろうと言い続けました。彼女達は電話番号を教えてくれて、私が運転手の保険番号をもらったことを確認してから、やっと私から離れました。私は自転車を家に持って帰って、父の自転車で勉強会に参加しに行きました

 今回の交通事故の後、すぐ心性の試練がやってきました。運転手は自転車の賠償をしようとしませんでした。両親はまた早く賠賞の手続きを済ますように催促しています。結局、運転手に騙されました。実は内に向けて探した時、私が物質の損得を気にしていると気付いたのです:先生は私の命を救ったのに、私はまだ新しい自転車を欲しがっています。私はなんと利己的なのでしょう。

 この事件に現れた私の利己的な考えは私の個人の修煉に現れただけではなく、私が表に出て大法を証明する障害にもなりました。先生が私の命を救ったのに私がまだ常人の心に動かされて出てきた各種の欲望を取り除くことができないとはっきり認識しました。しかしそれと同じように、法を証明する仕事が私の目の前にあって、先生がこの神聖な機会を与えてくださったにもかかわらず、私はまだ自分の深く隠れている利己的な考えから抜け出せません。私は常人の理から自分の行動のため言い訳を探して、多くの仕事を遅らせたのです。勇猛邁進しなければ、要求に達することは生易しいことではないと今やっと分かりました。時間は矢のように過ぎてしまい、関の乗り越えはますます難しくなり、法の我々に対する要求も更に高くなりました。私はこの物欲の世界に既に多くの年月を無駄にしました。今私は法の勉強、自分自身の良くないものの除去及び大法を証明することなどを同時にしなければなりません。今まだ目覚めないならば、いつ目覚めるのでしょうか。

 現在の大法の情勢は修煉者の間の協調を厳しく求めています。一部の学習者は表に出て大法を証明することに障害がありますが、一部の学習者は動揺せず表に出てきました。時々、私たちの間に現在の大法の我々に対する要求に対して食い違いがあります。これもなぜ明慧ネットが私たちの行動の指針なのかということの理由です。数ヶ月前まで明慧ネットがあまりに権威的で私はなかなかついていけなかったのです。明慧ネットの編集部があれこれやりなさいと言っているようです。しかし、今明慧ネットが各方面からの指摘と助言を心から受け入れていると認識しました。彼らは清らかな心で編集し、全世界の人々に真相を伝えています。また各地の学習者の間の掛け橋の役割を果しています。明慧ネットを絶対化してはいけませんが、真剣にそれを参考にしなければいけません。先生は"明慧ネットに間違いがないと言っているのではありませんが、重要なことに関して必ず明慧ネットの態度を見なければいけない"とおっしゃったのです。

 法を証明する過程では、多くのことに関して自分自身で悟らなければいけません。多くの場合に私たちの不純な心が晒されたのです。私たちの執着心がまだ完全に取り除かれていないうちに、自分がいいと思っていることであっても他人に誤解され、ひいては逆効果を得てしまうのです。例えば、表面上、他人が常人の心を取り除くことに手伝っているように思えますが、実は内心で私たちは昔のやり方、人を不快させるやり方で相手に指摘したりプレッシャを掛けたりしています。私たちは慈悲或いは善の心から現在の情勢及び法を正す過程に参加するということの重要性を他の人に認識させているのではありません。先生は≪シンガポール説法≫では"もし自分の何の観念も抱かず、個人の利益を出発点としているのではなく、心から他人のためになりたいと思って、その人の良くないところを指摘し或いは何が正しいなのかを教えてあげれば、その人は感動して涙を流してしまうのです"。ですから、私はほかの人にもっと慈悲の心をもって、トラブルの前にまず自分を探さなければいけません。

 弘法の活動にあってどのように真相を説明すればいいかという問題にもぶつかりました。しかし、この関を突破した時に私は大法の力を感じました。もし私たちの心が法に置かれており、常人の一面に制御されていなければ、周りの環境は真に正されるのです。長い間、私は自分が法会に参加すべきではないと思っていました。私が精進していないから、それほど神聖な活動に参加する資格がないと思っているからです。これは法会の目的と法会の個人の修煉にもたらすメリットに対しての理解が足りないからです。これも私の魔性の邪魔です。このような考えの存在を言い訳にして、魔性はほかの修煉者との交流を阻止して私が向上できないようにしていたのです。本当に、これほど多くの修煉者と一緒にいて、彼らの精進振りを見て、自分にはまだ取り除かなければいけないものが多くあると悟ったのです。これは積極的に皆さんを押し上げて更に向上できるような環境です。

 多くの人は2000年9月のニューヨーク法会、2001年1月の香港の法会或いはそのほかの法会に参加しました。私たちは既にその時間の神聖さと我々の参与の深い意味を体得したのです。ただ集まって一緒に黄色いシャツを着て請願してチラシを配っているように見えますが、参加者の全てはそれがこの世で大法を証明しているのだと分かっています。それこそ法会の偉大と殊勝なのです。先生は北アメリカの大湖地区法会では"私たちが世人に真相を伝えている時、一部の人の大法に対する邪念を除去しましたから、少なくともこの点において彼を救ったのではありませんか。皆さんが真相を伝える過程で法を得た人もいますが、これで彼らの罪を取り除いただけではなく、彼を済度したのです。これは皆さんが更なる慈悲を施したことを物語っているのではありませんか。もっと良いことをしたと物語っているのではありませんか。皆さんは極めて厳しい状況で、邪悪が最も盛んになっているとき、まだ他人を済度しています。"

 とても嬉しいことに、私は以上の法会に参加しました。今日私はまたジュネーブにきました。

 私が今までの誤り及び皆さんの体験と悟りから啓発され、更に向上できるよう期待しています。他人及び自分にもっと善な心を持てるよう頑張りたいと思います。皆さんもこれからの修煉において更に勇猛邁進できるようお祈りします。「堅修大法緊随師」(心自明)

 最後に、先生の詩をもって私の発表を終わらせていただきたいと思います。

実 修

 学法得法,
 比学比修,
 事事対照,
 做到是修。

無 存

 生無所求,死不惜留;
 蕩尽妄念,佛不難修。

 

 ありがとうございました。

ベルギー ニコラス(Nicolas)
2001年3月ジュネーブ法会にて