―友たちの質問へ

私はどうして沈黙を保っていなかったのか?

◎ 包谷

 私は時時ネット上で法輪功の弾圧を批判する文章を書きましたが、いつも友たちに、こんなことしても役に立たないだろうと言われています。私は法輪功の人ではなく、法輪功の人さえもまったく知らない。当局を批判する私の行動は、自分にもめごとを引き起こす以外、何の利益も齎さないでしょう。中国の事情は変る時期がくれば自然に変り、変る時期が来なければ、いくら文句をいっても駄目だし、法輪功への弾圧は私の邪魔にまったくならないし、黙ったほうがよいのではないでしょうか。

 これらの理が私ははっきり分かっています。しかし、黙っていてはならなかったのです。その理由について、まずある出来事から話しましょう。

 1966年の夏、文化大革命の始め頃、私は一夜にして反革命者となりました。それから、“思想反動”という肩書き私から離れませんでした。私がこの二十年あまりの経歴を人にめったに言いませんでした。ある日、偶然に,私が何人かのアメリカ友人と文化大革命のことを話したところ、そばで静かに私たちの話を聞いた私の先生、ある年寄りの女性が、後でわざわざ私のところに来て私にそういいました:“そう言えば、あなたは幸運な人ですね。神様があなたに苦しみを与えた故に、あなたが他の学生のように人の財産を押収したり、先生たちを罵ったり、年配者を殴ったりしなかったのです。過去を振り返る時、あなたが悔しく思うことは少ないので、実は神様があなたをしっかり見守っていてくれたのではありませんか。”

 彼女のこの言い方に私がとっても意外でした。彼女の次の話に私がもっと意外でした:“I am sorry。あの時、私たちはこれらのことをまったく知らず、貴方たちあんなふうに苦しまれたことをまったく知らなかったのです。あなたのために私たちが神様に祈ることもさえしなかったのです。そのため、私はとってもすまなく思います。”

 彼女は普通のクリスト教徒です。私たちの文化大革命時の経歴は彼女とどんな関係があるのか?私たちから見るとまったく関係がありません。しかし彼女から見ると、とっても関係のあるのです。つまり、一部の人々が苦難に見舞われたとき、彼女がその事実を知らず、また無感覚だったのです。その故、彼女がすまなく思っています。私がこの先生を良く知っているので、彼女の誠実と正直疑う余地はありません。

 その前、私がずっと自分は文化大革命の受難者と思っていました。十年の文化革命の間に私が人を傷つけることをしたことがなく、人の財産を押収した人、他人を迫害した人、他人を罵ったり、殴ったりした人、彼らは犯罪者であり、自分の罪をみとめるべきだとだけ思ったのです。

 文化革命について、我々は二十年も反省してきました。我々は心の拷問をする必要があるという学者がいます。我々全民族は懺悔をする必要があるという人もいます。しかし、どのように拷問し、どのように懺悔すればよいのでしょうか?この答えを我々が得られませんでした。中国のこの土地上、度重なる苦難、度重なる罪悪の存在は明らかな事実ですが、拷問はどこにあるのですか?懺悔はどこにあるのですか?中華民族はほんとに反省のできない民族ですか?

 このアメリカ人女性の一言に私はいろいろ考えが浮かび、突然あることが分かりました:私が懺悔することがないのではありません。すでに薄くなった過去の多くのことが私の目の前にはっきり現れました。文化革命の十年を振り返ると、私が懺悔すべきことは多いのです。

 1966年夏私が反革命者になる前の短い時期、私も“赤色恐怖”に身を投げました。私が情熱で“万歳”と叫び、私が熱狂的に“打ち倒せ”と怒鳴り、一生懸命革命運動に献身し、革命された人は革命されるべきだと固く信じ、死んでもいい気味だと人の災難に喜び思いました。更に、わたしが無実の罪を雪がれた後の九年間、”牛棚“の中で苦しまれた人に対して依然見えないふりをしていました。周りの人群れに従い、無数の批判大会に参加し、先生たちの迫害に手を入れました。学校の傍にある“牛棚”に拘禁された先生たちが拷問されて叫んだ悲鳴に私が急いでそこから離れ、聞こえないふりをしました。頭の半分がそられて丸坊主になった、トイレの掃除をさせられていた私の先生に会ったとき、私が見えないふりをして、彼女に慰める言葉は一言も掛けませんでした。つい最近私が、彼らの中に迫害で障害者になったり、自殺したりする人もいたことを聞きました。しかしこの長年、私はこれらのことに無感覚でした。

 二十年あまりが経った現在、ある年寄りのアメリカ人の一言で私が眠れないほど不安を感じ始めました。どうして?どうしてわたしが自分に教わった先生の運命にあんなに冷淡でしたか?どうしてわたしが他人の苦痛にあんなに無感覚で済ませましたか?

 このアメリカ人女性にとっては、人類の一部が被害をこうむった時、被害を受けていない我々がもし何もしなければ、神様の前で我々は有罪です。他人の被害に面する際、もし我々は無感覚であれば、神様の前に我々は罪悪の共謀者であります。この共謀の罪に関する感覚は、我々に自分の心を見つめ、自分の過去を反省する力を与えました。心の拷問、民族の懺悔、外に探すものではなく、自分自身によるものだと私は気づきました。長年文化革命の被害者について研究してきた王友琴女史はそういいました:懺悔はある種の精神境地であり、完全に個人的、自己的なことであり、宗教信仰のような精神行為であります。

 文化革命の災難を見つめて、文化革命中失われた無数の命、失われた自由、失われた家庭、失われた青春、失われた愛情、失われた人間の道徳心、失われた人々の外部の前途及び内心の光明のために、我々が懺悔しなければならない。この懺悔を通じて、私があることに気づきました:もし再び文化革命に遭遇し、もし再び他人の無実の迫害に直面したら、私はもはや無感覚になることはできない。

 今日、中国の二百万法輪功成員の遭遇をみると、文化革命によって多大の被害を蒙った無実の人々の運命を思い出しました。今の中国では、何を言っても為になることが出来ないかもしれませんが、そのため何も言わなければ、権力を操り、法律を違反する他人を迫害する者はますますひどくなるのではないでしょうか?もし我々がみな沈黙していれば、我々が今後、知識を備え、人格を養うことを論じ、民族の懺悔、心の拷問なとの深刻な話題を触れる資格はどこにあるのでしょうか?

 これは私の沈黙を保っていなかった原因です。

(2/24/2001 3:12)