【大紀元ネット1月23日】
外界コメント:法輪功と中国
◎ 何怡生
1.前書き
私の友人であるところのアメリカ人教授が私に一通の手紙の中に次のように書いた:“私は多くの国際的に知名な学者及び研究センターと良い仕事関係を持っています。其の中に、日本と韓国の学者もたくさんいます。しかし、正直に言うと、我々の中に、中国の民主化運動について別の角度から検討する人はとっても少ない。少なくとも、1989年六四事件からは一人もいない。
“1985年から1988年、私がアメリカのある大学の政治学部で学部長を務めた時、北京大学からのある政治学講師を訪問学者として招きました。とっても愚かなことは、我々は彼が訪問期間を済み、国に帰る前に初めて彼に報告を頼みました。
“それまで彼が我々に与えた印象はずっと静かで、従順な人柄でした。毎日自分の研究室で静かに仕事をしているだけで、余分な話はまったくしない人でした。其の時はちょうど北京の“民主壁”時期でした。しかし彼が報告した後、我々はやっと彼の真の顔を見ることができ、共産党中国の本音を聞こえました。民主に反し、憎みと凶悪の感情に満ちた声でした。私はこのことを忘れることができません。それから、私はあることを理解しました:共産党中国と貿易と商業の関わりによって中国人民に民主と平和を齎す夢は永遠に実現できないでしょう。
“アメリカと西洋先進国はこのことを了解しないといけない。大きな財団が創られる、共産党中国とビジネスを通して其の国家状態が変る、などの論点は偽りのものしかありません。しかし、本当の選択肢は一つほかにあります。つまり、法輪功は中国政府の所謂‘邪教”でもなく、我々がいうある“支流”、或いは太極拳のような“武術”でもありません。法輪功こそ中国本土に根づいた、民主を実現する根源的な方法です。西洋の民主モデルをそのまま中国に移すより、これこそ中国から生まれ、中国に適応するほんとうの中国の方法です。
“多分、法輪功の精神的及び身体的な利益以外に、共産党は、法輪功の精神が自分の中央集権、独裁、又は権力濫用に最も大きな脅威であることに気が付きました。私の考えでは、(法輪功は)哲学上、政治学上とも中国社会の重大な進歩であります。”
2.中国との商売は中国を救えるのか?
西洋人と中国人とも中国が西洋社会とビジネスを行うことは良い事だと考えている。私もそう思った。強くなり、発展することは中国にとってはとっても必要なことだ。中国との商売関係によって、一方中国が国際社会に入り、合格できる国際家庭成員になって国際規則を守らせることができる。もう一方、西洋社会が協約を通じて中国を制約することもできる。両方とも中国の発展を促進する。
だが、これはただ物事の一面である。双方とも利益の取捨選択が存在する面もあるのだ。西洋の資本家達が中国の巨大マーケットを切り開くことを望む一方、中国が西洋の資本を利用して国の発展を希望する。よく言われたように、利益は常に優勢になる。そこで、利益が道徳、或いは原則と衝突を起こした場合、利益は常に唯一の決定要素となっている。利益集団は経済実力を利用して政治決定に影響を与える例が少なくないだろう。
しかし、中国のドアに割れ目が開いたとしても、国の進歩がまったく見えない。人権状況は依然低下し、独裁の程度だけますます上進している。何らかの現実的な経済利益のために譲歩する姿が常に出されていたが、国家レベルの進歩は少しも見えなかった。これらのことが西洋社会は分からないではなく、中国を変える方法がないので仕方がなかったのだ。自慢できるところは一つも見えず、強硬と狡詐だけは中国現在の特色と言える。
中国共産党は国のマーケットの魅力と誘惑はよく認識しているが、惜しいことであるが、これをプラスの面にするではなく、利益を争い、他人を抑制する手段として、権力者の利益と国の道徳原則の間に弄ぶだけなのだ。こんな意見が時時聞こえる:改革開放が改革してしまったのは全て中国の伝統にとって素晴らしいことだ:誠実、正直、公正、礼儀、理屈にかなう;実現したことは全て悪いことだ:互いに騙しあい、権謀を弄し、間違いをごまかす。
中国の現状をみると、十年後の中国社会が、安泰、平和、民主、自由のある社会になれるとは私にはとても思えない。
3.中国にまだ希望があるのか
改革の初期まだ希望が多少残っていたが、現在の中国社会は道徳が日々低下していって、最低にまで堕落した。
学者たち、政治のエリートたちがそのようなモデルを期待していた、“政治的な独裁+経済的な発展”。もしこのモデルが社会の十分な発展、国民の平和な生活を保証できれば、まだ通用する。しかし、中国社会の怪異はその自身の変異循環にある。喩えていうと機械のように自身の産出したパワーで自分を改革するのは、根本の変化を齎すことができない。もっと正確に言うと、これは自行壊滅である質的な変化の過程にすぎない。なぜなら、全ての共産党国家はゴルバルチェブのような勇気と胆力を持たない。中国共産党も自身の弊害から抜け出せなかった。権力者の真の関心は改革ではなく、権力を守ることにある。それ故改革は一種の偽装になり、政権維持の代名詞となった。真の改革がなければ、残ったのは利益を目的とするやり取りしかない。腐敗、汚職、浪費の無限循環の中で、共産党中国は日々に汚くなり、最初の理想を完全に放棄した。この悪循環を見つめている私の自分の国に対する希望も完全に破滅した。
4.法輪功への弾圧から何が見えたのか?
アメリカに来た最初の三年間、人事処のような管理機関のないあまりの自由に私は戸惑った。現在は逆に、生活の自由と平和を有難く思い、アメリカ人の人権、民主、自由及び神様を信奉する理念と社会実践を理解し、同じように考えている。
中国政府が法輪功を弾圧する話を聞いたとき、私が思ったのは、当局はどうして封建時代の戦さ演義を現代中国で上演するのか?法輪功への弾圧を一年もずっと見ていて、たまらないほど共産党中国のリーダーたちの恥じ知らず行為を恥ずかしく思う。元々のとっても良い事を悪くしてしまい、更に自分の国民を死の境地に追い詰めるという、信じられない残酷だ。しかし、どうしても理解できないのは、どうして江沢民は自分の国民を殺すことができるのか?どうして他の多くの中央リーダーたちが彼の凶悪をやめさせないのか?どうして文化大革命、六四天安門事件、数え切れない政治運動を経験した国民が共産党の残酷を見ても以前と変らず無感覚であるのか?どうして中国の外交官たちが世界に嘘を堂々とつけるのか?だんだん、私が法輪功成員たちの信念を堅持する勇気に最初の不満から今の尊敬の気持ちに変った。
5.西洋モデルと法輪功
最近、多くの中国問題の専門家、学者と中国民主運動の活動者たちとの交流の中で、民主について彼らが一致した認識に言及した:中国の所謂民主運動は実は中国の国民が自由、健康、合理の社会を目指して努力する過程である。そこから、みなそれぞれのレベルである認識に至った:法輪功は現代中国人権奮戦の主流である。惜しいことに法輪功は政治に参与しないと称している。
過去の我々が言った民主運動は、中国社会のエリートたちに構成され、中国社会の実践とギャップのある一種の運動である。つまり、西洋の社会実践がそのまま中国に移されると、理論のレベルに留まってしまう。立派な理論と実践できない現実の矛盾は西洋強国が武器で中国の門戸を切り開いて以来常に存在している。
東西社会の社会構成と制度のずれ違いは、もし神様によってわざわざ創られたものではなければ、きっと両種の社会と民族を構成する要素はまったく異なるからである。例えば、政治的、文化的、経済的、人文的、先天の思想的、哲学的、社会的、人種的な差異。物質種類の差異は固有しているように、カエルは改革によってサルになる;サルは改革によって人類になるなんて、とんでもない話だ。
何千年以来、中国社会の管理は法律によって実施するではなく、道徳によって管理されている。歴史を見ると、道徳の作用は中国社会では法律よりずっと有効で、悠久である。 夜も鍵をかけず、道に金が落ちていても誰も拾わないという話は神話ではなく、過去の現実である。多くの民運人士が西洋の民主社会を信仰する基点、つまり、法律と民主制度が基づいたある基本の観点は、人間であれば、誰でも悪の本質があるという“性悪論”である。それに立脚すれば、個人の人間性に頼るより、制度の制約は最も安全だ。しかし中国の歴史をみると、法律の中国での出現は大分遅れている。秦の時代は法律のある時期が存在していたが、やはり社会からの必要がないのでしばらくなくなった。法律は中国社会ではずっとどうにもならない存在だといえる。
法輪功が中国の国民を引き寄せた原因は、その道徳上で自己を律することにあると私は考えている。その点も私がとっても感心した原因である。中国の国民の文化素質はとっても貧しいため、国民と社会について深刻な理解を有し、東西の知識を一身に持った我々学者の選択こそ民衆の最も良い未来を代表すると私はずっと思っていた。しかしこれらの所謂社会エリートたちが献身して促進しようとした民主は百年以来何の進展も見えず、かえて時々逆戻りになってしまう。法輪功はわずかの八年、九年間の間に法輪功民衆を不滅の力量にさせた。その中我々研究すべき大きな学問がある。
6.法輪功の堅忍不抜
過去の民主化運動は、政府の独裁に反することを目的とし、国家の西洋民主社会制度への良性な変化を望む運動であった。対象は政府であるので、必ず政府を転覆させる願望がなくでも、独裁政府に受け入れられない。
法輪功の堅忍なところは、民衆は政治上の訴えを持たず、政治を変え、或いは転覆する綱領も持たないことにある。魅力に満ちた綱領と観念は共産党当時国家を取るための基礎と承認だった。極端な方法で異質なものを行き止まりの道に押しやり、その人に共産党を反する立場にさせる、これは共産党が異端を取り除くためにいつも使う手法だ。この方法で共産党は多くの敵を作った。しかし、この方法は法輪功の人には通用しない。一年も経った今、法輪功の群衆が天安門で主張したのは法輪功はよい法だ、よい功だというだけだ。少しでも共産党に反対する訴えが見えなかった。
まったく政治綱領のない法輪功群衆がどうして天安門に来たのか?もちろん生活の改善ではない。互いにまったく知らない人が、一緒になるとすぐ高い集団行動力を出せる。法輪功の力量はそこで分かる。法輪功と比べて、過去の運動が弾圧されたら声がなくなる原因は、法輪功のような内在化した堅忍と道徳上の自律を欠けているからであると私は思う。人がいても、いなくでも、無論どんな場合においても良い人になると自分に要求する法輪功群衆が有するこの深い道徳精神と原則によって、残酷な弾圧の中でも彼らが堅い信念は変らない。これは法輪功不滅の原因だ。
現在法輪功は中国の希望として広く見られている。想像してみれば、90パーセントの中国人民が法輪功が求めるように行動すれば、中国はきっと民主、自律、堅忍不抜の国になるだろう。過去我々が常に人民が悟らないと不平を言うばっかりだったが、人民の目がさめた現在、我々は目がさめたのか?人民の自覚した原因、内容、原動力、などを我々が詳しく検討すべきではないのか?
7.知識人と互い励む
先の私のアメリカ人教授の友人は、法輪功の中国の社会進歩過程における作用について十分な認識をもつ学者である。西洋文化出身の彼にとって、自分の国の経験で他の国の社会進歩を促進させる意欲は当たり前だろう。しかし、彼は本土主義の枠を抜け出し、中国社会の現実から中国事情に適応する法輪功の本質を理解するのは素晴らしいことだ。彼は私にそういった:“アメリカ国民に法輪功の中国社会の進歩における重要性を深く理解させるべきだ……”
法輪功の一年の鮮血で敷いた平和の道に照らして、私が自分の良知を探し出した。私は今非常に系統的に法輪功の著作を読みたく、法輪功はどのように中国大衆の素質を変え、彼らを無知の個体から道徳的、自律的な整体に変ったのか、中国のような社会,又はアメリカのような社会に法輪功はどんな現実的及び歴史的な意味があるのか、非常に知りたい。