幸遇大法得重生  跳離苦海

勇猛精進修心性  早返家園

萩野 美恵子

 私は大阪在住の法輪大法の弟子で、楊雲慧と申します。今年29歳で、いまは萩野美恵子と言います。二人の子供を抱えた母親です。私の家は全員法輪大法の修煉者です。今日は皆様と修煉の体験や感想を交流する機会を得まして嬉しい気持ちで一杯です。私が大法に出会った前後の変化を皆様に紹介したいと思います。

 私は代々佛教を信奉子する家庭に生まれました。物心がついたころに母と一緒に線香をあげ、佛を拝んでいました。十代の時は同世代の者よりませていました。常に人生は苦しくて短く、自分の運命は秋風の中の落葉のように、何十年はあっという間に過ぎてしまい、だれ一人最終的に生、老、病、死の結末から逃れられる者はいないと思い、人生の本当の意義がどこにあるのか悩んでいました。この人生がいやになる悲観的な考え方が十数年も私の中に存在し続けていて、大変苦しかったのです。本当の解脱を見出すために佛教経典の暗誦に没頭して、答えを見つけようとしました。私は「般若心経」などの経典を暗誦していました。毎日佛の名前をぶつぶつ唱えていました。後に「金剛経」も読みましたが、心は全然昇華していなかったのです。こうして十数年あれこれして、心身ともに大変疲れ果てて苦しく、どこで暮らしても心の中はいつも落ち着かず根がない感じをしていました。一方、その間しょっちゅう美しい妙な夢を見ていました。白い綺麗なスカートを穿いて、自分が空中をなんの心配もなく飛んでいました。あたりにはやぐらや宮殿楼閣があちらこちらに見えて、どれもこれも白く霞んだ霧の中にあって、象牙色をしていました。あの安らかな心地のよい感じと清らかな息吹はとても言葉で言い表せないほどすばらしいものでした。夢から醒めて、現実の生活に戻ると一層生きることの苦しさを感じ、夢と現実とのギャップを乗り越えられず、命を捨てることまで考えました。意識ははっきりしているし、こんなことはいけないことも知っています。でも現実を変える方法もなく、こうして自分を自分の穀の中に閉じこめて、人と口もききたくなく人生に非常に消極的でした。

 そんなとき、1998年幸いにも法輪功という本に出会いました。この本を手に入れるとただちに李先生の深い法理に引き付けられました。一気に読み終わり、二日間一睡もしませんでした。この世界でまだこんなに人の心を震わし、人の涙を誘う貴重な本があるとは信じられませんでしたから。この本を読んで、まるでいま夢が醒めて、なにもかも分かったような気がしました。先生によって人生の中で、色々解けなかった難問も解けましたし、永く閉じこもって疲れ果てた心の結び目もほどきました。本を読んでからの何日間か私はついつい涙が溢れたりして、思うことはまるで土手が切れた潮のように湧いてきて、なかなか静まりませんでした。私はこの法にますます親しみを感じ、押さえきれない力が湧いてきて、修煉の道を歩む決心をしました。繰り返し李先生の録音を聞いたり、ビデオを見たり、本を読んだりしてはじめて、この十数年間私を悩ましていた原因が分かりました。『転法輪』はこのように書かれています。「病気の恢復、災難の回避、業力の消去などを願う人々は必ず修煉を通じて、「返本帰真」しなければなりません。修煉の各派もこのことについては同じように考えています。返本帰真することこそ人間としての本当の目的です。」それからまた「大覚者から見れば人間になることは目的ではありません。人間の生命は人間になるためのものではなく、元に返るためのものです。人間はさまざまの苦しみに耐えていますが大覚者はその苦しみが多ければ多いほど良く、債務が早く返済できるものと考えています。」この宇宙の本当の法を知った時、長年のありとあらゆるうっせきや暗い気持ちも、うそのように消えました。そのときの本当に解脱した喜びの気持ちはとても言葉で言い表せません。いつのまにか心の病も奇跡的に治り、人生に本当の意義が生まれました。だから私は法輪大法のことを非常に大切に思っています。大法との縁があるから今日の私があるのだとつくづく感じました。心の病気はお金をいくら使っても治らないものです。

 李先生がおっしゃったとおり、修煉の道は「順風満帆」というわけにはいかないのです。人間は業力に業力を重ねて生きてきたので、誰でも自分の難儀と執著する情をもっています。したがっていろいろな心性の摩擦と体に感じる辛さにも見舞われます。私の場合は実家の父親が癌で亡くなりました。私が国外にいて、体の具合もよくないために、父が亡くなって四ヶ月後に、やっと知らされました。それを知ってからのしばらくの間、いつも父の声と姿が目の前に浮かんだりしていました。父に最期に立ち会えなかったことを悔しくてたまりませんでした。いつも涙をポロポロ流して、自分の感情が抑えられませんでした。ついに心に魔が生じるような状態までなっていました。夜、目を閉じると父が泣きながら病気を治してくれと私に頼んでいる姿が現れます。病気に苦しめられているありさまが目の前に浮かんできます。これは魔が親子の情を利用して、私の修煉を邪魔していることに気が付きました。先生は『転法輪』にこのように書いてあります。「修煉は練磨の中でこそしなければなりません。常人の持っている七情六欲を放棄することができるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です。どうしてもそれらのものに執着するのであれば、修煉を成就することはできません。」私は修煉したい。だからこれらの情を棄てなければなりません。

 経文「修煉者の忌み」の中にもこう書かれています。「自身の情に執着すると、きっとそれに煩(わずら)わされ、纏(まつ)わられ、迷わされます。その情けは一生を邪魔するのです。歳月が過ぎてから、後悔してももう遅いのです」私はこの理を悟り、もう死んだ父との親子の縁は終わったのだと思うと、この難関もすんなりと乗り越えました。もっとも大法の偉大な力を感じさせられたのは法を勉強し、煉功することによって、これまで執著し、追求していた佛教の経文はいつのまにか記憶から全部消えてしまったことです。先生が本当に修煉する私を他の法門に邪魔されないように守ってくださっていることが感じられます。

 それから体のほうもつぎつぎと業力を滅するための難関を乗り越えました。例えば、心臓ですが、一週間ほどとても呼吸が苦しくて、心臓がのどにまで出てくると思えるほどの動悸がしました。もうだめになりそうでした。でもそれは先生が私のために身体を浄化してくれていること、体外に廃棄物を出してくれていることだとはっきり分かっていました。だから始終自分を本当の煉功者として律して、一粒の薬も飲みませんでした。まもなくその現象が消え、つい難関を乗り越えました。

 法の勉強と煉功の深まりにしたがって、思想の上でも昇華、向上しました。気持ちはますますよくなり、家の中でまた賑やかな談笑の声が聞こえるようになりました。私はよく主人、子供、主人の両親、ほかの煉功者と一緒に煉功したり、法を読んだりしています。何ヶ月か経ってから家族全員に大きな変化が見られるようになりました。皆元気になりました。ことに主人の父親の脳血栓の症状も修煉によって奇跡的に消えてしまいました。しかもとても元気がよいのです。皆、病気がなくて身体が軽くなった感じを味わったのです。私の皮膚も前よりずっときめが細かになり、何歳も若くなったような気がします。法輪功は本当に性命双修のすばらしい功法であることを身をもって感じました。この法は私の人生観を徹底的に変えました。ところが大法に対する認識はしばらくの間、主に感情的な段階に止まっており、本当に理性的に認識していたのではありません。そのため、歓喜心が生じました。神がかりしているかように、理性を失った状態で、大法に対して恩を感じ、徳をたたえ、師に対して感謝感激する感情に陥り、修煉と常人社会の生活との関係をうまく処理できませんでした。修煉と常人社会の生活との関係をうまく処理できませんでした。一時家庭生活もめちゃくちゃになり、子供のことも可愛がらなくなり、主人が職場から帰ってきても、おいしい料理を作ってあげなくなりました。毎日私はただ法の勉強と煉功のくりかえしです。法への気持ちは極端にまでなっていました。主人の両親は善意的に何回も修煉と生活との関係をうまく処理するよう注意してくれましたが、聞き入れませんでした。とうとう主人の母親は怒って私のところから出て行きました。私は一瞬どうしたらいいかわからないと思いながら、やりきれない思いもしました。自分が法を学び、先生に感謝の気持ちを抱くのはどうしていけないのか。どうして理解してくれないのか。先生が大法を伝えることに出会わなかったら、いまだに苦痛のど真ん中にもがいているのではないかとしばらくの間はなっとくできませんでした。涙は枕カバーを濡らし、口元も傷めました。この心性の関門はどうしてこんなに乗り越えにくいのでしょうか。煉功もできなくなり、心が千々(ちぢ)に乱れ、毎日「済度」「済世(さいせい)」のテープを流しっぱなしにしていました。その悲壮な曲、人を感動させる音楽を聞いているうちに、気持ちはだんだん静まりました。佛は衆生を済度するために私たちが想像できない困難や危険に遭遇したにちがいありません。しかしそれらにちっとも動ぜずにやってこられました。「精進要旨」という本に書かれた言葉を読んで、パット目が覚めたようでした。師はこのように書かれました。「あなたたちは常人の中の名、利、情が傷つけられると感じた時、それはもう常人の執著心が捨てられないあらわれです。よく覚えてください。修煉自身はそう苦しくはありません。要は常人の執著心が捨てられないことです。あなたたちは本当に名、利、情を捨てようとする時、苦痛を感じるのです。」またこんなこともおっしゃいました。「佛はあなたたちを済度するために常人の中でもの乞いをしたこともあります。今日私は門を開いて、大法を伝え、あなたたちを済度します。私は数え切れない苦しみを味わったことを全然苦にしていないのに、あなたたちはまだ何が捨てられないのでしょうか。捨てられない心を天国まで持って行くとでも考えているのですか。」私は先生の言葉に感動して、涙がとめどもなく流れてきました。自分のことをはずかしく思いました。実は自分の心の奥にかくれた、厳重にガードされている常人の感情が自分を支配しているのです。トラブルが起きた時、自分のために、感情のために言い訳をするのは、まさに常人の嫉妬心のあらわれではないか。まわりの人が修煉と生活との関係を正しく処理するよう注意してくれたのは正しいのではありませんか。大法は融通のきくもので、人類社会は大法の最も低い次元のあらわれなのです。わたしはまず良い嫁、良い妻、良い母にならなければなりません。『転法輪』に書いてあるように「自分を常人社会から遊離させてなならず、醒めているなかで修煉しなければならないのです。人と人との間は元通り正常な関係ですけれども、あなたの心性はいうまでもなくかなり高くなっています。心態も非常に正しく、いっそう自分の心性を高め、自分の次元を高め、悪いことをせず良いことをするように努めるのです。このようになっているだけです。もし大法の弟子が法輪功以外になにもできないとの印象をもってしまえば、それは大法のイメージを損わることになるのではありませんか。主人の親はまさに私が極端に走っているのを見て、修煉と生活との関係を正しく処理するよう真・善・忍に注意してくれたのに、わたしはその善意を仇で返しているなんて、私はそれでも修煉者と言えるでしょうか。納得できてから無心になれた時、体中が軽くなったような気がしました。自分のまちがいを改めようと主人の母親に自分のことを許してくれるよう真心こめて謝りました。私たちはまた元のように仲良くなりました。この難関を乗り越えるのに、二ヶ月もかかりました。まさに先生がおっしゃったように「常人が捨てられない心はすべて捨てさせなければなりません。すべての執著心、一つでも持っていれば、あらゆる環境の中でそれを磨いて落とさせなければなりません。失敗させて、その中から悟らせるのが修煉なのです。」 いま毎日大法を勉強しています。自分自身の変化と思想の向上を通じて、大法の奥深い内包を身にしみて感じました。勉強すればするほど、自分がいかにちっぽけであるかを思い知らされました。自分がとても幸いに思ったのは、この世で法輪佛法を聞くことができ、恩師自らの済度を受けられることです。先生のおかげで、向う岸の見えない苦しい海から救われ、将来への道を教われました。私は常々先生の広々とした、慈悲に満ちた心と大きな威徳に感動しています。とくに先生の長春における法輪大法の指導にあたる人たちの交流会で、学習者の質問に答えた言葉に打たれました。「私はあなたたちのたくさんの業力を滅しました。実は私が皆さんの肩代わりをしています。人間は誰でもそうですが、罪やあやまちを犯したら必ずつぐないをしなければなりません。借金の踏み倒しは絶対許されません。これは天の理です。」経文を読んで、また涙があふれていました。先生への感激は人類の言葉でとても言い表わせません。いまのすべてをくださった李先生の恩を報いるために、法をわが師とし、一生懸命に修煉に励み、一日も早く円満成就するよう、ただただ自分にこう言い聞かせています。私の変化は中国にいる家族をも信服させ、みなこの功法はすばらしいと称えました。実家の母、兄、姉、姉婿も相次いで「返本帰真」という修煉の道を歩むようになりました。

 今日まで私は修煉の道で命にかかわる難儀にあいませんでした。皆生活の中のささいなことです。でも修煉するにしたがって難儀の度も増すにちがいないと思います。でも私は最後まで大法を信じます。生涯大法を手放さず、怨んだり後悔したりすることなく、とことんまで修煉します。自分の人生に円満なピリオドを打とうと決心しました。修煉の道は自分が選んだのですから、自分が責任を負い、どんな難儀にあっても、自分を厳しく律し、他人を優しく迎えます。宇宙の最高の特性は「真、善、忍」であることを片刻も忘れず、それで自分を律し、心性を修煉し、片刻も忘れず欲を捨て、円満成就して、自分の本当の家に帰るまで「返本帰真」の道を一心に修行し続けていきます。