縁有って大法を得る 堅く修煉して圓満に至る

藤野 晟

 皆さんこんにちは、私は藤野晟と申します。私は今年の初め頃法を得たもので、まだ、一人の新しい学員にしか過ぎません。私は縁があって法を得ましたがそのきっかけは、私の母親は中国に帰ったとき、友人が彼女に一冊の「転法輪」をくれました、帰ったら必ず読んで下さいと言いました。日本に帰って来て、母親がこの本は佛教のことを書いてあるようですと私に言いました。私は面白半分でこの本を読みました、するとただちに本の中に述べられた「佛法」に吸い込まれました。私は豪華な宮殿に入ったようで、中の奇妙な現象は私を驚かし、戻ることを忘れ、止めたくても止められなくなりました。本を読んだ後、深く感動し、すぐに自分が分かったもの理解できたものを親戚や友人に伝えたいと思ったのです。私が母親にこの本は仏教のものではなく、膨大で限りなく「佛法」そのものを書いてあると言いました。

 今まで、私は何の功法もやりませんでした、気功を信じなかったわけではありません。それらの功法は私にとって魅力があるものではなかったからです、或いは、自分に自信がなかったのかもしれません。「法輪大法」は私に全く新しい感覚をもたらしました。「法輪大法」の功法は簡単で、五つの功法を一度に習得し、全部覚えられました。このように、知らない内に自分が煉功の信念を増していたのです。特に本の中に書かれたように「煉功は時間と方向を問わず、先生が学員の下腹部に法輪を植え付け、法輪は24時間回転し続ける。人間が煉功をしていなくても、功は人間を煉っている。」と「人間は宇宙の特性゛真、善、忍゛と同化し、心性が高められたら、功も同じ高さに伸びる」等々。私はもっと早く法と会えば良かったと感じました。ちょうど今年の2月14日に横浜で「法輪功体験交流会」が開催され、学員達の体験を聞き、又、団体煉功に参加しました。このように私は修煉の道を歩み始めました。

 私は法を得てまもなくの間に2回の心性の試練を経験しました。私は日本に来て三年目の時「花粉症」になってしまいました、毎年春に発作が起こります。一日中絶え間なく、鼻水と涙、くしゃみは次から次へ、家族の睡眠のじゃまになっていました。今年も例外ではなく、酷いときには、一日たった二、三時間しか眠れなくて、ティッシュは一晩で一箱でも足りなかったのです。以前ある人に一種の注射を勧められました。一回の注射で一年間発作がないことを保証できるものです。二年間、毎年この注射を受けました。しかし根本的に治ったわけではないため、次の年はまだ発作が起こり、しかもどんどん酷くなってきたようです。例えこうであっても、その注射は私にとって大きな魅力を持っていました、すくなくとも、緊急対策としては効果があり、辛さを緩めてくれました。初め私は注射してから煉功を出来るし、寝る時もくしゃみや鼻水で人の邪魔にならなくて済むし、法を勉強するときも落ち着いて集中できると思いました。今から見るとこの考えは、未熟で、おかしく思います、しかしその同時、私は大いに悩まされていました、私はすでに病院に行く準備もできましたが、適当ではないと感じました、なぜなら私は法を得たのです。もしこんな事をしたら修煉者と言えるだろうか?色んな事を考え出すのは何らかの言い訳を探して自分のよくない心に逃げる場所を造ったではないのか?先生は「転法輪」の中でこのように言いました「あなたが病気のことばかり考えるその心を捨てられないのなら、我々は何もしてあげられないし、どうすることもできない」又「人は、以前に悪事を働いたため生じた業力のせいで病気になったり、難儀にあったりしています。苦しみを味わうことは他でもない“業”を返すことなのだ」「転法輪」の最後にこう書いてあります。「忍び難きは忍びうる、行い難きも行いうる・・・…もし本当にやり遂げられれば、きっと“柳暗花明又一村”というように、目の前に新たの世界が開けることに気づくに違いない。」先生の慈悲深くて優しい言葉を思い出したら、私の心に力を注ぎこまれたようで、病院に行かない決心が固くなりました。二日後私は大法の威力を感じました。私は正常な人間と同じようになって、くしゃみや鼻水や涙もどこかに行ってしまったのです。周りの人は私が注射も薬もやらなかったことを聞いてとても驚きました。私は彼らに自分が“法輪大法”を修煉しているからと言いました。このことを通して私は大法への信念を固めて、それからの業力を滅すことの反応に対して一粒の薬も飲みませんでした。私は本当に心から自分の身体を浄化してくれた慈悲深い先生に感謝しています。

 次は三月末のある日、私は中古車の店を通ったとき、一台のきれいな改造車を見つけました。その時すぐ買いたいと思いました、けれど心の中に葛藤がありました、なぜなら、当時私が乗っている車は後一年間半の車検が残っていて、法も得たのです。このことをしたら執着になるかな?でもこんなきれいな車と会うのは滅多にないことです。結局あの車の誘惑に負け、経済能力も考えずに買いました。他人が自分の車を褒めてくれるととても嬉しかったのです。しかし、二日も立たずに誰かが車体に傷をつけました、その時私はカンカンに怒りました。しかし、考えて見たら、私は修煉者であり、常人と同じ気持ちになってはいけない。もうどうでもいいと思ったのですが、事はこれで終わりではありませんでした。五月のある日、駐車場にある私の車の車輪は一晩で全部無くなりました。日本でこんな事があるとは思いませんでした。突然のことで頭が真っ白になりました。後にして先生が言ったことが思い出されました:“どんなことも偶然ではない。”“一人の修煉者にとって、常人の中にある全ての苦悩は関門を超えるためである。”又“あなた達は必ず覚えておきなさい、修煉は元々辛いことではない、重要なのは常人の執着を捨てられないことです、あなた達の名、利、と情を捨てようとする時辛く感じるのです。”その上もしかしたら私は以前人に何か借りがあるかもしれません。そうでないなら、車に傷つけた人、車輪を盗んだ人は、必ず自分の徳と交換しなければならない。私達煉功者にとって重要なのは徳ではありませんか?本当に私のものであるなら失うことはありません。振り返って再び自分を見たら、怒り、恨み、罵り、これらは修煉者の“忍”ではない。先生が言いました、“あなたは自分の敵を愛せないなら円満成就出来ません。”比べて見ると自分の考えはどれほど違っていることでしょう。

 法を得る前に私は“パチンコ”にはまって癖になっていました、酷いときは仕事に行かず遊びに行ったこともありました。知り合いと会ったとき彼の最初の挨拶は“今日は又貯金に行ったの?”私は只照れ隠ししながら“心配するな、これは少しずつ蓄えてまとめて引き出すんだ。”と言い返すしかありませんでした。実際のところ、私はずっと“預けっぱなし”でした。このため妻も私と何度も喧嘩をしました、しかし毎回私はいかにも理由があるように堂堂と彼女に言います、“これは大したこと無いよ、日本の仕事が大変だから、ちょっとリラックスしてもいいんじゃない。”法を勉強したら、私がパチンコをやることは強い欲望であることに気付きました。これは修煉者が無くすべきものである。逆に考えたら金を儲けたとしてそれも自分の徳と交換したものではないか?“この宇宙の中に理がある、失わないものは得られず、得るためには失わねばならぬ。失いたくなくても強制的に失わせられる。”と先生が言いました。その後、私はパチンコをやったことがありません。妻が私と喧嘩しても解決できなかったことを、大法は簡単に解決してくれました。妻も大法の威力を感じ本を読み、ビデオを見るし、テープも聴いています。彼女も大法の修煉者になりました。今、生活の中で何か問題があったら、お互いに修煉者の標準で自分に要求しています。私達は大法の弟子として問題があったら自分に責任があると思うと問題もすぐ解決できます。

 私の家で十何匹ものきれいな熱帯魚を飼っていました。家族もとても好きでした。私は毎日仕事を終わって、帰って来ると必ず見て楽しんでいました。でも、修煉者としては“飼わない、殺さない”としなければならない、しかもその好きであるということも一種の執着心です。ですから私と妻はそれらを人にあげたのです。以前は、友達が集まったら、酒を飲むのが普通でした。修煉者にとって酒を飲むことは一つの執着であって、この執着心も無くすべきです。ですから法を得てから酒をやめることにしました。友達に何を言われようと、私は全然気にしていません。なぜなら、私は一人の修煉者ですから。

 修煉の過程で、夢の中の試練もいくつか経験をしました。これら全部私の心性への試練です。上手く超えても、得意になって喜ばない、乗り越えられなかったら修煉者の標準と照らしながら自分に要求し、自分は社会の中でよい人間になってから、徐々に宇宙の特性“真、善、忍”に同化し、常人の“名、利、情”を捨て、修煉の道はどれくらい長くても、極めて険しくても、私の修練していく決心は変わることがありません。

 最後に先生の詩で皆さんと一緒に頑張りたいと思います。

“修業の道のり苦しからず、
 幾世に渡る業力が道を険しくすればとて;
 業力滅す心性を修める決心堅ければ、
 永遠(とわ)の人身是(これ)佛祖。”